Sunday, January 22, 2023

だいちゃんとようこちゃん、「宇都宮の軌跡」を巡る。(旧町名編 その2)

 「宇都宮の軌跡」の看板を探すプロジェクト(旧町名編 その2)。

 このプロジェクト、歩いて探すことをルールとしてます。なかなか見つからないんですよ(^^;)。
 ※写真はぼくが撮ってます。説明の文章は、看板に書いてあるものを写しています。

6 【旧町名】蓬莱町(ほうらいちょう)
 この付近に、古くから蓬莱観音を祀ったお堂があったので、蓬莱町と呼ばれるようになったと伝えられています。江戸時代は日光街道沿いに町家が並び、七のつく日には市がたち、にぎわいをみせました。
 位置情報:36.5557, 139.87513
 ここを何度も通ってるのに、何度も素通りしました。自分の目の節穴さにビックリです。

7 【旧町名】茂破町(もやぶりちょう)
 この付近は、宇都宮城主本多正純が日光街道を開くまでは、竹藪や雑草の生い茂る原野であったところを、「茂を破って」町づくりしたことから、茂破町と呼ばれるようになったといいます。江戸時代には、二のつく日に市がたちにぎわいました。明治時代の初めになって、茂登町(もとまち)と改められました。
 位置情報:36.55681, 139.8748

8 【旧町名】挽路町(ひきじちょう)
 元和5年(1619)、宇都宮城主本多正純が日光街道の付け替えを行ったとき、付近の道を西側へ引いて町をつくったので、挽路町という名が付いたといわれています。また、轆轤を挽く家が多かったことが、町名の起こりだとも伝えられています。江戸時代には、二のつく日に市がたち、にぎわいをみせました。
 位置情報:36.55825, 139.87513

9 【旧町名】代官町(だいかんちょう)
 この付近は、宇都宮城下の西端に置かれた武家屋敷町でした。江戸時代の初めに代官屋敷が置かれていたことから、代官町とよばれるようになりました。一つの屋敷の大きさは600~800坪ほどでした。明治時代の初め頃、大寛町となりました。
 位置情報:36.55931, 139.87338

10 【旧町名】材木町(ざいもくちょう)
 この付近は、宇都宮城の北西に位置した町人町で、特に藩の御用材を商う木材問屋が軒を並べていたことが、町名の起こりと伝えられています。町の中ほどから東の場内へ通じる道には不明門(あかずのもん)と呼ばれた木戸番所がありました。
 位置情報:36.5605, 139.87545


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