「宇都宮の軌跡」の看板を探すプロジェクト(文化財および名所・旧跡編 その1)。
旧町名と同じ色、形で、文化財および名所・旧跡を案内する看板が、市内のあちらこちらに点在しています。いったい何処に何があるかが全く分からないんだけど、ブラブラ歩いていると、そのヒントがあることが分かってきました。
こんな「まとめ看板」があるんです。これを頼りに探してみたいと思います。
※このプロジェクト、歩いて探すことをルールとしてます。(^^)。
※写真は、ぼくが撮ってます。説明の文章は、看板に書いてあるものを写しています。何か不都合がありましたら、ご連絡ください。
1 百間堀跡
この辺りには、宇都宮城を守る百間堀がありました。幅24間(約43m)、深さ3間2尺(約6m)、北は三の丸の太鼓門から南は宇田門まで、およそ100間(約180m)あったので、この名が付けられました。市指定天然記念物である「大いちょう」は、この堀の内側の土塁上に立っていると考えられます。
位置情報:36.5566889,139.8821111
2 旭町の大イチョウ
宇都宮のシンボル、大いちょう。看板は、ありませんでした。
位置情報:36.5575639,139.88295
3 修道館跡
この付近には、安政5年(1858)に設けられた修道館がありました。文化年間(1804~1818)に開かれた宇都宮藩の藩校を、幕末の藩政改革によって充実させたものです。藩士の子弟に古典・武芸などを教えるとともに、一部には洋学の教育を取り入れました。明治4年(1871)の廃藩置県により閉校となりました。
位置情報:36.5590528,139.8821417
4 張番木戸跡
ここには、江戸時代に張番木戸がありました。奥州街道(現・大通り)から宇都宮城の大手門に向かうには、最初に通らなければならない木戸でした。この木度を南に入ったところに、役人の詰める番所があり、人々の通行を監視していました。
位置情報:36.5615917,139.8823861
5 鏡ヶ池
昔、この辺りに池があり、その池から出てきた鏡を二荒山神社に奉納したことから、鏡ヶ池と呼ばれるようになたといわれています。また、池から出た鏡は、静御前が落としたものだという伝説があります。宇都宮の古い名である池辺郷は、この池を含む広い湿地に由来するという説もあります。
位置情報:36.5606528,139.8828889
6 下の宮
看板は、ありませんでした。
位置情報:36.5607222,139.8863056
7 御橋
ここには、釜川を渡るための橋が架けられ、御橋と呼ばれていました。この橋は、宇都宮城主が大手門から二荒山神社に参拝するときに渡ったといわれ、元和5年(1619)、本多正純が大手門を江野町に移してからは、一般の人も渡れるようになったと伝えられています。
位置情報:36.5596639,139.8856972
8 三日月堀跡
元和6年(1620)、宇都宮城主本多正純は城郭の大改修を行いました。この辺りにあった三日月堀は、そのときに掘られたもののひとつで、東西に三日月形に長く湾曲し、堀の幅約22m、東西の長さ約144m、深さ約8mありました。
三日月堀は、大手門(正面の入口)から太鼓門に入る敵を防ぐ、防衛強化のためのものでした。
位置情報:36.558575,139.8845361
9 おしどり塚
看板は、ありませんでした。
位置情報:36.5596222,139.8897556
10 今小路門跡
この付近には、宇都宮城の三の丸全体を大きく囲う土塁が築かれ、本多正純が城郭を拡張したとき、「今小路門」が造られました。この門を造るため、釜川に面した所にあった六軒の魚屋は大町の一部に移されました。
位置情報:36.5579333,139.8879083
11 贈従三位戸田忠恕之碑
戸田忠恕は、安政3年(1856)10歳で家督を継ぎ、宇都宮藩主となったが、幕末維新にあって勤王の志深く、山稜修復や戊辰戦争に力を尽くし、明治元年(1868)5月、わずか22歳で没した。
この碑は、明治30年(1897)特旨を以って従三位が贈られた後、翌31年に旧藩士や有志が。忠恕の功績を不朽に伝えるため建てたもので、その波乱に富んだ生涯が、漢文体で碑前面に刻まれている。
位置情報:36.5542806,139.8858028
12 上蓮池跡
この辺りには、宇都宮城の東側を守る堀である上蓮池がありました。この池は幅30間(約54m)で、内側には石垣が積まれていました。宇都宮城の堀で石垣があったのは、この付近だけといわれています。
位置情報:36.5545639,139.8874972
13 下蓮池跡
この辺りには、宇都宮城の南東を守る堀である下蓮池がありました。この池は、宇都宮城を囲む堀としては最も外側にあり、近くにあった門や石垣、上蓮池とともに城の守りを固めていました。
位置情報:36.5531389,139.8869028
14 南館堀跡
この辺りには、宇都宮城の南の守りである南館堀がありました。この堀の幅は10間(約18m)であったと記録されています。堀の内側には武士の屋敷が建ち並んでいました。
位置情報:36.5516556,139.8846722
15 地蔵堀跡
この辺りには、宇都宮城の南西の守りである地蔵堀がありました。この堀は地蔵堂門と英巌寺(宇都宮城主戸田氏の墓所)をむすぶ道路の南側に位置し、近くには今でも延命地蔵堂があります。
位置情報:36.5509278,139.8826444
16 千歳坂
この辺りは、宇都宮城の南西に位置し、城内で使われる野菜畑(前裁畑)になっていました。伝承によると、前裁(せんざい)の音から、千歳(せんざい)の字をあてて、千歳坂と呼ばれるようになったといわれています。
坂は、西に高く東へなだらかに傾斜し、坂を東に下ると南北にのびた土塁につきあたり、西に上ると武家屋敷に通じていました。
位置情報:36.5514694,139.8823083
17-1 英巌寺児童公園/宇都宮城主戸田氏の墓所
英巌寺は、宝永7年(1710)戸田忠真が宇都宮城主になったときに建てられたが、もともと墓はなく、位牌堂があった。
戸田氏(江戸時代中ごろから明治維新までの宇都宮城主)の墓は、江戸牛込の松源寺にあったが、明治41年(1908)松源寺の移転のとき、ここ英巌寺に改葬された。
正面に46第忠恕の墓、左の離れたところに47第忠友(最後の城主)の墓、左奥に忠次から忠明まで11人の名前が刻まれた大きな墓碑がある。
位置情報:36.5507889,139.8808889
17-2 英巌寺児童公園/英巌寺のイヌツゲ
英巌寺は、宝永7年(1710)に戸田氏が建てた寺である。広い境内に位牌堂や僧堂があったが、明治初めの戊辰戦争で焼失し、イヌヅゲだけが当時の様子を偲ばせてくれる。
イヌヅゲは、モチノキ科の木で、日本のほか中国に見られる。雄株と雌株の区別があり、5~6月に白い花が咲く。普通あまり大きくならないので、庭木として利用され、このような大きなイヌヅゲは大変にめずらしい。
でも、残念ながら、イヌヅゲは、もうありませんでした。
位置情報:36.5502611,139.8807056
18 西館堀跡
この辺りには、宇都宮城の西の守りである西館堀がありました。この堀は宇田門から西館門にかけて続き、幅は23間(約41m)であったと記録されています。堀の内側には御普請小舎がありました。
位置情報:36.5546528,139.8820194
19 松ヶ峰門跡
この辺りに、宇都宮城の西の出入り口となる松ヶ峰門がありました。門の西側には、城を守るための土塁が南北に続いていました。
門を入ると、西から東に下る狸坂があり、城に使える最上級の武家屋敷が並んでいました。門の東側は、城内武家屋敷の中では一番の高台になっており、最も早く朝日がさすことから、高屋敷とか朝日台と呼ばれていました。
位置情報:36.5553889,139.8795167
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