Sunday, April 9, 2023

だいちゃんとようこちゃん、「宇都宮の軌跡」を巡る。(文化財および名所・旧跡編 その5)

 「宇都宮の軌跡」の看板を探すプロジェクト(文化財および名所・旧跡編 その5)。
 今回は、材木町通りにある、この「まとめ看板」に載ってる名所・旧跡です。
 
 ※このプロジェクト、歩いて探すことをルールとしてます。(^^)。
 ※写真は、ぼくが撮ってます。説明の文章は、看板に書いてあるものを写しています。何か不都合がありましたら、ご連絡ください。

1 材木町木戸跡
 ここには、町人の住んだ材木町から武家の屋敷へと通じる門があり、材木町木戸と呼ばれていました。代官町(現・大寛超)に住む武士が、城内に通う朝晩だけ門が開き、日中は閉じていたことから、不明門とも呼ばれていました。
 位置情報:36.5597611,139.8758222

2 佐野口木戸跡
 この付近は、宇都宮城の西方に位置していました。江戸時代の初め、宇都宮城主となった蒲生秀行は、城内を修築して強化を図り、城内と町人町を板塀で仕切り、その際、出入口を設けました。ここは佐野道に通じていたので、佐野木戸口と呼ばれていました。木戸を入ると武家屋敷になり、木戸の横には出入りを厳しく見張る萱葺きの番所がありました。
 位置情報:36.5565972,139.8753667

3 一向寺
 その2で書きました。

4 歌橋番所跡
 その2で書きました。

5 六道閻魔堂
 その2で書きました。

6 観専寺/藹崖山人碑
 高久藹崖(1796~1843)は、江戸時代後期の南画(山水画のひとつ)の大家で、那須郡杉渡戸(現在の那須塩原市越堀)の農家に生まれた。27歳のときに江戸へ出て渡辺崋山らとともに、谷文晁の門人としてすばらしい才能を発揮した。その作品の多くは、県や市の文化財に指定されている。
 石碑は、安政2年(1855)、観専寺の黙雷上人が建てたものであり、藹崖の人物・交友・業績などを明らかにしている。藹崖の才能を認めて援助したのは宇都宮の文化人たちであり、当時の宇都宮の文化の高さを物語っている。
 位置情報:36.5612694,139.8724056

7 丹堂薬師跡
 この辺りに「丹堂薬師」がありました。全体が朱塗りのため「赤ん堂」とも呼ばれ、親しまれていました。江戸時代の宇都宮案内書『宇陽略記』に、「丹堂薬師、安養寺の北にあり」と記され、「目の薬師」として多くの人たちに信仰されていました。
 お堂に修理の跡はあるものの、市内では数少ない江戸時代の建物として貴重なものです。平成3年(1991)、大通りの拡張によって、桜5丁目に移され、薬師如来像は安養寺に安置されています。
 位置情報:36.5622778,139.8727556

8 蒲生君平生誕の地
 「寛政の三奇人」の一人といわれた蒲生君平は、明和5年(1768)、ここ新石町(現・小幡1丁目)に生まれ、幼名を伊三郎といいました。13歳のころに、祖先が戦国期の武将蒲生氏郷であることを知り、「蒲生」と名のるようになりました。近畿地方などの陵墓(天皇・皇族の墓所)の研究所である『山稜志』をはじめ、多くの書物を著し、学者・思想家として、後世に大きな影響を与えました。
 位置情報:36.5619194,139.8766333

9 日光街道と奥州街道の追分
 江戸からの街道は、ここで日光街道と奥州街道に分かれました。北へ向かう本郷町通りが日光街道、東へ向かう大通りが奥州街道にあたり、多くの人馬でにぎわった場所でした。
 位置情報:36.5620194,139.8769833

10 本陣跡
 江戸時代、この辺りに本陣が置かれました。本陣とは、大名や幕府の役人などが宿泊する施設のことです。東北地方の大名の参勤交代のときや、将軍の日光東照宮参詣の際の供者の宿舎として、この本陣が使われました
 ここ伝馬町の本陣は、200坪(661㎡)近い大きな建物でしたが、今は、屋敷の庭にあったイチョウの大木が、わずかに当時の面影を偲ばせてくれます。
 位置情報:36.5620389,139.8774417

11 屋台(伝馬町)
 こちら、私有地内とのことで、近寄って撮影できませんでした。
 位置情報:36.5612889,139.8779444

12 高札場跡
 ここには、江戸時代に高札場がありました。高札場には、人々が従わなくてはならないお触れや、きまりごとなどを書いた木の札(高札)が立てられていました。宇都宮藩内の村々にも同様な高札場がありました。
 位置情報:36.5618444,139.8786306

13 朝日坂
 この付近は奥州街道に沿った所で、江戸時代には町屋が並び、商業の中心地としてにぎわいをみせたところです。
 この坂は、西に高く東へなだらかに傾斜し、坂の上には観音像を祀ったお堂がありました。観音像には朝早く日がさしたので、朝日観音と呼ばれ、この坂を朝日坂(旭坂)と呼んでいました。この坂の上から、二荒山神社の森や城下を一望することができたといわれています。

 位置情報:36.5618139,139.8800806

14 松が峰門跡
 その1で書きました。

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